大津事件

 万延元年(1860)に清から沿海州を手に入れたロシアはシベリア鉄道を計画しました。その起点となる軍港、ウラジオストクで行われる起工式に出るため、明治24年(1891)ロシアのニコライ皇太子が日本に立ち寄りました。皇太子は日本の最新鋭艦より4倍も大きい6000トン級の戦艦など7隻の大型艦をしたがえて、やって来ました。強大国の皇太子の来日は日本の安全上、とても重要なことなので、日本は国をあげて歓迎の用意をしました。ところが5月11日、皇太子は滋賀県の大津を人力車で通行中に、警護している警官に切りかかられ、きずをおいました。
 すぐに明治天皇が東京からたって見舞いましたが、ロシア公使ははげしく日本を非難しました。「死んでおわびする」と遺書を残して自殺した女の人もいました。政府内では「皇室に対する罪を適用して、犯人を死刑にすべき」という意見が強く出ました。
 しかし、政府が法をやぶって人を死刑にすることはできません。法律と現実の間をうめるために憲法で定められている「緊急勅令」(--ちょくれい)を出すことも考えられましたが、あとからできた法で過去をさばくのは法治国家のすることではありません。また、外国の王族を自国の皇族と同様に解釈すると、自他の区別の無い国になり、世界の笑いものにされるという意見もありました。いっぽう、法を守ったためにロシアに攻められて国がほろんでは何のための法か、という心配もありました。
 大審院(現在の最高裁判所)長の児島惟謙(こじまこれかた)は、「司法は法を守らなければならない。それでこそ外国からの尊敬をえることができる。」と、司法権の独立をはっきりさせて、裁判官を説得しました。その結果、一般の謀殺未遂罪(ぼうさつみすいざい)により無期徒刑の判決がくだされました。政治と司法のそれぞれの限界も明らかになりましたが、明治天皇も政府の人も児島惟謙もみんな思うところはただ一つ、日本をどうやって外国の攻撃から守るか、でした。
(写真は長崎県。人力車で長崎観光中のニコライ皇太子)


育英オリンピックが続きます
 今週から、延期されていた育英オリンピック(50メートル走・1200メートル走・走り幅跳び・ボール投げ)が実施されます。今日の50メートル走は2人ずつ2回走って、各自の速いほうを記録とします。体温の上昇が予想される1200メートル走は、天候を見て比較的涼しい日に行いたいと思います。
<保護者のかたへ>
 生徒の体調が思わしくないなど、育英オリンピックを休んだほうが良いと判断された時は、その日の朝までに担任にお知らせください。



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