さくらなみき物語

「光かがやく春の朝、大人の男も女も、子供らまで加わって、海藻を採集し浜に広げて干す。…こうした光景すべてが陽気でうつくしい。だれもかれも心うきうきと、うれしそうだ。」
(Scidmore, “Jinrikisha days in Japan,” 1891、シッドモア『日本・人力車旅情 (有隣新書)』)


 日本の美しさに魅せられ、7度日本に行ったシッドモア女史が、植物学者のフェアチャイルド氏と昆虫学者のマーラット氏のお花見に招かれたのがはじまりでした。フェアチャイルドは自分の家に25種類の桜を植えて研究するなど、日本の桜をアメリカに根づかせようとしていました。マーラットも庭に桜を植えていました。シッドモアはすぐにタフト大統領夫人に、計画中のポトマック河岸の公園に桜並木を作るように手紙を書くなど、ワシントンDCに桜を植える活動をはじめました。
 時はフェアチャイルドが中心となって進めていた植物移入の全盛期で、計画は積極的に進められました。そのころ、ニューヨークに桜並木を作る運動をしていた高峰譲吉は、ワシントンの動きを東京市長に伝え、外務大臣も動いて、東京市から2千本の桜がおくられました。桜は日本郵船がシアトルまで無料で運び、明治43年(1910)1月、ワシントンに到着しました。(写真上は桜を運んだ加賀丸)
 ところが、桜に害虫が付いていて、2千本全部が残らず焼却されることになりました。メキシコから侵入した害虫によって南部の綿作が大きな被害をこおむったこともあり、マーラットたちの昆虫局で害虫への警戒を強めていた時でした。桜並木計画は挫折(ざせつ)します。
 日本から来た桜の焼却は、動植物の移入にたいする風潮を180度変える絶好の材料となり、やがて、検査に合格したものしかアメリカに持ちこめない検疫法が成立します。
(続く)→http://d.hatena.ne.jp/kokuda/20070428



<今週の学習と宿題>
(省略)


来週の行事‥4月21日(土)育英オリンピックが続きます。‥活動しやすい服装で。