津波から人を救ったすすき

 みのりの秋ですね。最近ではコンバイン(収穫機)でいねかり(稲刈)をするので、すぐに米になりますが、かつてはいねかりから後も、てまひまがかかりました。
 かりとったいね(稲)は2週間ほどいねかけ(稲掛)で干してから、11月の連休前後にいねこき(脱穀)をしました。いねこきで取れたもみ(籾)はさらに乾燥してうすひき(籾摺)ですりぬか(籾殻)を取って米になりますが、もみをとったあとのわらは、田んぼに積んで保存します。わらは生活必需品で、わらを積んだ「すすき」は大切な農家の財産でした。
 この「すすき」が大勢の人の命を救ったことがあります。日米和親条約が結ばれた1854年、和歌山県沖から高知県沖を震源域とする震度6地震が起こり、中部地方から西で大きな被害が出ました。その日の夜、広村(現在の和歌山県広川町)にも津波がおそいましたが、濱口梧陵(はまぐちごりょう)が自分の田んぼの「すすき」に火をつけて、村の人々を高台に誘導して避難させました。地震の後は私財を投じて、村の復興に努めました。そして、つぎの津波にそなえて村の人をやとって海岸に堤防を作りました。92年後の昭和21年(1946)、この堤防は昭和南地震津波被害も防ぎました。
 梧陵は、奉仕の精神で、国や和歌山県でも活躍しましたが、明治18年(1885)ニューヨークで亡くなりました。
 濱口梧陵の事を最初に世に知らせたのは明治23年(1890)、アメリカの新聞記者として来日したラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)が書いた「A living God -GLEANINGS IN BUDDHA-FIELDS」でした。日本全国で知られるようになったのは、昭和12年(1937)、国語の教科書にのってからです。みんなは、アメリカ人の気づいていないアメリカの良さをもう発見しているでしょうか。
(写真上は広川町のすすき。和歌山県「愛育園」から)
 浜口梧陵の誕生日→http://d.hatena.ne.jp/kokuda/20090724
もえよ稲むらの火―村人を津波からまもり堤防をきずいた浜口梧陵 (PHPこころのノンフィクション)


<今週の学習と宿題>
 (省略)