7月9日の横浜港

 武士の世は大政奉還(1867)によって終わりましたが、外国と結んだ条約は新政府によって引き継がれ、多くの外国船が日本に来るようになりました。そんな中、明治5年(1872)7月9日(旧6月4日)に横浜に入港したペルー船「マリアルス号」から清国人2人が英国軍艦に逃げ込むという事件が起こりました。調べてみると、マリアルス号の乗客は清国人231人でしたが、全員、苦力(クーリー)として、奴隷のように閉じ込められ、ペルーに売られて行く人たちでした。苦力は、アメリ南北戦争終結(1865)以来、黒人奴隷に代わる労働力として売買され、ペルーでも鉄道建設などで使われていたそうです。
 奴隷制度と人身売買に反対する日本は、ペルー船を止めて、乗客全員を解放し清国に帰しました。ところがペルー政府は、この処置を不当として抗議し、大きな国際問題になりました。日本は、日本の港で起こったことは国権にかかわることなので、「正義と人道」を世界に訴えました。仲裁裁判は3年かかりましたが、イギリスやアメリカの助力も得て、明治8年(1875)、ロシア皇帝の仲裁によって日本の処置が正しいとされました。
 同じ頃、新政府は、ハワイ国やグァム島(スペイン領)や清国に渡った日本人が過酷な待遇で売買同様に扱われていたのを追跡調査し、可能な限り連れもどしました。
 江戸時代の鎖国は、来航した外国船によって日本人が人身売買の犠牲になっていた事が、理由の一つでした。「マリアルス号事件」を通して、保護するのは国民だけでなく、外国人に対しても不当なことは日本でさせないという新政府の強い態度が、諸外国に知らされました。今日でいう「人権」は、世界へと歩みだした明治日本の一つのテーマだったのです。
<絵は(三代目)歌川広重の「横浜海岸通之真景」(1872)部分>


今日の予定
 終業式、夏の集い
(時間表省略)



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